台湾に移住して、現地のディベロッパーに設計士として所属しつつ、 台中にてアートギャラリーを運営している木村一心 (きむらいっしん) さん。
Akushuにも台中の街づくりについて記事を書いていただいています。
前回の台中編に続いて今回は、Akushuウェブマガジンにも記事を掲載している高雄の料理人・江舟航(ジェイミー)の誘いで訪れた高雄・左營の街づくりについて紹介していただいています。
第1回目【左營の歴史建築】の後編、ご覧ください。(前編はこちら)
龍虎塔周辺の古い街並み
台湾の北部や中部に比べて、高雄の気温はとても高いです。
この日も10月にも関わらず、とても暑い一日でした。
龍虎塔の周辺は、住宅街が広がり、古い建物で個人経営する商店がたくさんあります。
ジェイミーさんに連れられ、次に訪れたのは、小さな杏仁茶屋※6さん。
築100年以上の歴史的な建物で、お店を営んでいます。
赤いレンガや花のタイルが特徴的な閩南式の住居建築を眺めながら、杏仁茶をいただきました。
左營における日本の歴史:建業新村
杏仁茶で一休みし、次に向かったのが、建業新村※8という場所です。
この場所は、日本統治時代に日本人によって開発された日本海軍のための住宅街です。
当時日本は、南方への進出を目的に、高雄の左營に軍港を含む軍事拠点の建設を進めていました。
その際に必要となった軍官のための住居施設を軍港周辺に建設したのが、建業新村の起源となります。
庭や門が備わり、一件一件独立した住宅は、軍官の職位によって様々な間取りで建てられました。
現在は台湾海軍所有の土地ですが、高雄市政府文化局の方針のもと、現在まで壊されることなく残されてきました。
しかし廃墟化した敷地内の建物をよく見てみると、日本人が当時設計した日本家屋の様子とは少し異なることに気づきます。
変貌していく日本家屋
戦後、日本人が台湾から去った後、左營の軍事施設は、国民党海軍に引き継がれました。
建業新村の住居には、大陸からたくさんの軍事関係者が移り住みました。時が経ち、彼らの家族や世帯が増すごとに、レンガとモルタルで増築工事が行われ、住宅は拡大していきます。
敷地の外側にも次々と新しく住居が建設され、大きな住宅街へと変化し、眷村と呼ばれるようになりました。
実際に建物の中を見学すると、土間や水場がおかしな位置にあったり、床や天井の高さが所々変わったりと、不思議な住居空間を確認することができます。
そんなユニークな使われ方をしながら、拡大していった建業新村ですが、その後、建物の老朽化などが原因で、住民は政府が用意した新築のマンションに移住することになります。
ほとんどの住人が建業新村を離れ、建物は廃墟化しましたが、高雄市政府文化局による保存・修復を経て、現在は建物や土地を新しく活用するプロジェクトが発足されています。
建業新村から徒歩約五分の位置に建てられた、住民の移住先マンション。住民たちを説得する一つの要素として、より軍港(職場)に近い位置に建てられたそうです。
移住者は、元々住んでいた家の大きさ、家柄、職位など、それぞれ様々な背景を持つので、すべての住民を要望を聞き、移住を承諾してもらうことは、とても大変だったようです。
以上、今回のコラムでは、高雄の左營という街で出会った歴史的な建物を紹介させていただきました。
次回のコラムでは、建業新村について更に掘り下げて紹介致します。
高雄市政府文化局は、どんな方法で、建業新村を再生・活用していこうとしているのか。
その計画に協力し、建業新村を拠点に活動している若いクリエイターたちの詳細を含め、詳しく紹介していきたいと思います。
※6杏仁茶屋
https://www.facebook.com/sanshi2007
※7永吉玩具行
高雄市左營區店仔頂街164號
※8建業新村