コラム

特別掲載 納涼祭の物語は鉄道から話せよう【文/片倉佳史】

歴史的にも日本とのかかわりが多い台湾。

今でも日本人になじみ深い観光地・北投温泉も日本とのつながり抜きには語ることができません。

そんなつながりを振り返り、北投をさらに盛り上げようと北投温泉博物館が主催し、開催されたのが2017年と2019年の北投納涼祭。

北投温泉博物館は現在も日台の温泉・銭湯の文化を切り口に様々な活動を行っています。

台湾北投・北投温泉博物館

その一環として製作されたのが『公共浴場文化誌《浸北投》』。

歴史から北投を紐解き、日台を飛び越えて、単に湯につかる風呂としてでだけではなく、「文化」に浸る北投での新しい体験を生み出す、そんな試み。

この試みをもっと日本の皆さんに知っていただくために、今回は北投温泉博物館の許諾を得て、特別に北投納涼会に関する記事を掲載します。

記事は台湾在住の作家で武蔵野大学客員教授の片倉佳史さんによるものです。

作家・片倉佳史氏

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納涼祭の物語は鉄道から話せよう

納涼祭と淡水線

北投の納涼祭は淡水線と深い縁があった。淡水線は台北と淡水を結んでいた路線で、台湾で最も長い歴史を誇る支線でもあった。開通は1901(明治34)年8月25日。縦貫鉄道の全通よりも早い。

 

台北から淡水河を下流に向かって23・0キロ(新北投支線を含む)。途中、大正街、雙連、圓山、宮の下、士林、唭哩岸、北投、江頭、竹圍の各駅が設けられていた。現在は台北捷運(MRT)淡水線となっているが、大正街駅と宮の下駅は廃止され、江頭は關渡と改称されている。

画像提供 國立臺灣歷史博物館

納涼列車の存在

淡水線は開通の翌年夏に北投納涼祭と繋がりをもった。第一回北投大納涼祭は1902年に開催され、多くの行楽客が淡水線の「納涼列車」に乗って、台北から北投に向かった。

 

残念ながら、詳細な記録は少なく、全容を知ることはできないが、この納涼列車で北投を訪れ、温泉浴を楽しんだり、浴衣姿で温泉街を歩いたりする行楽客は多かったようである。

 

納涼祭の日は北投公園で音楽会が開かれ、提灯が随所に掲げられて美しい眺めとなっていた。温泉浴を楽しむ人、屋台をひやかす人、街頭映画を楽しむ人など、それぞれが思い思いに北投の夜を楽しんだ。その中には台湾総督府の高官も含まれていた。

 

軽快に走るガソリンカーの導入

1915年、台湾総督府鉄道部はガソリンカーを導入した。これは機関車が客車を牽引する客車列車とは異なり、車両の両端に運転席があるため、単行(一両編成)による運行が可能だった。当然ながら、運用効率が高く、都市部を中心に活躍していたが、その先駆けとなったのが淡水線であった。そして、このガソリンカーを用いて、「納涼列車」が運転されるようになる。その歴史はガソリンカーが導入されるよりも前に遡るが、行楽列車としての納涼列車は、ガソリンカー導入後に定着していった。

画像提供 國立臺灣大學圖書館

温泉街を結んだ支線

北投から温泉街の玄関口となる新北投までの支線は1916(大正5)年4月1日に開業した。わずか1・2キロの距離で、所要時間は2分だった。当時、すでに台北の奥座敷として親しまれていた北投温泉の玄関口として新北投駅は賑わっていた。

 

この路線の最大の特色は北投温泉への行楽客輸送を目的としていたことである。日本統治時代の鉄道は物資の運搬が主目的で、主役はあくまでも貨物列車だった。そんな中、唯一の例外と言えるのが新北投支線で、旅客列車のみの運行だった。そして、列車は台北との間で直通運転を行ない、ガソリンカーが導入されていた。

 

新北投支線の最大の魅力は利便性の高さにあった。台北との直通運転が行なわれ、乗り換えが不要なだけでなく、本数も多かった。1935(昭和10)年の時刻表を見ると、台北駅から出る列車は半数が淡水行き、半数が新北投行きとなっており、30分ヘッドのパターンダイヤとなっている。さらに、北投~新北投間の区間列車が30分おきに出ており、これは北投駅で淡水線の列車に待たずに乗り換えられた。

 

区間列車を含めると、新北投までは30分に一本という高頻度で列車が走り、しかも、規則性のあるダイヤが組まれていた。定時出発のフリークエントサービスが実施されていたケースは日本本土を含めても非常に珍しく、台湾では唯一のものだった。

 

ガソリンカーの走りは軽快そのもので、台北から新北投までの所要時間は27分だった。驚くべきことに、現在の台北捷運(MRT)でも同じく27分となっており、乗り換え時間を含めれば、日本統治時代のほうが早い。ガソリンカーの俊足ぶりがうかがえる。

画像提供 國立臺灣大學圖書館

 

煙の「洗礼」を受けずに乗れたガソリンカー

新北投支線の列車はすべてがガソリンカーだったが、注目したいのは、日本本土においてガソリンカーが普及したのは1920年代に入ってからということである。つまり、新北投支線を走ったガソリンカーは全日本の鉄道史の中でも早期に導入されたものだった。

 

新北投駅の構内配線にも注目したい。ここは台湾で唯一、頭端式の終着駅だった。この構内配置は、ちょうど「櫛」のようにホームがあり、線路の終端部に駅舎がある。こういった配置になったのは、貨物を扱わないことが前提となる。機関車が客車や貨車を牽引する場合は、「機回し(機関車の付け替え)」が必要だが、車両の前後に運転台のあるガソリンカーであれば、その必要はない。

 

つまり、新北投支線は建設時からガソリンカーの導入を想定していたということになる。行楽客の輸送を前提とし、時代を先読みしていた事実もまた、興味深いところである。

 

新北投支線は当初から行楽客輸送を目的とした路線だった。昭和時代に入ると、宅地化が進む沿線の通勤・通学輸送や台湾神社への参拝客輸送も増えてはいたが、最も大きかったのは依然として温泉に向かう湯治客の輸送であった。

ガソリンカーの最大の長所は、煙に悩まされないことである。蒸気機関車の煙は当時、老若男女を問わず、誰もが受ける「洗礼」だった。その点、ガソリンカーは快適そのもので、好評を博したのは言うまでもあるまい。

提供 國立臺灣大學圖書館

温泉街を駆け回る人力車

新北投駅と言えば、ガソリンカーだったが、もう一つ、ここを象徴づける乗り物があった。温泉街を駆け巡る人力車である。新北投駅の駅前には人力車が客待ちをしていた。北投温泉は北投公園に沿って温泉街が広がり、広範な地域に温泉宿が点在しているほか、地熱谷(日本統治時代の呼称は「地獄谷」)をはじめ、上北投やさらにその先にある頂北投までも含めると、エリアは相当な広さとなる。

 

 当然ながら、列車を降りてから、宿や浴場までの移動手段が必要となる。人力車はそういった人々の足として機能した。

 

 新北投駅前には数多くの人力車が常駐していたという。そして、列車本数が多いこともあり、終日、賑わいを見せていた。また、現在の北投温泉博物館(日本統治時代は公共浴場)の入口脇にも人力車の乗り場があり、温泉宿や保養所などには電話によって人力車を呼ぶサービスがあったという。

 

 なお、新北投支線が開業する前は、北投駅から人力車を利用して温泉街に向かうのが一般的だった。人力車は温泉街の移動のみならず、近隣への移動にも利用することができた。納涼祭など、イベントがある時には、行きかう人力車もまた、賑わいの風景を支えていたはずである。

 

残念ながら、昭和時代に入り、戦況の悪化とともに、納涼祭は終焉を迎える。そして、ガソリンカーや人力車も歴史の中の風景となってしまった。今となっては、北投温泉に残る数々の遺構を眺めつつ、往年の姿に思いを馳せるばかりである。

文字/片倉佳史

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この記事は北投温泉博物館の許諾を得て掲載されています。原文は北投温泉博物館-公衆浴場文化誌《浸北投》に掲載されました。

Web:https://www.hotspringmuseum.com.tw/

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1913年北投温泉公共浴場として建設された建物を利用し1998年に開館した温泉博物館。北投温泉をテーマにした各種展示が行われている。今回は記事提供元として執筆者に変えて掲載。

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